遊泳する言葉

言葉が追いつけないものがある。言葉に追いつけないものがある。だから言葉を追いかける……

ひとはなぜ、絵を描き始めたのだろうか

先日、近くの大阪府立弥生文化博物館に行ってきた。およそ2千年前の弥生時代の土器や銅鐸に線描きされた絵は、見ているとどれも妙に懐かしいものがあった。どこかで見たことがあるような懐かしさだ。それは幼児が初めて描く絵と似ている。ひとは誰でも、幼い頃そんな絵を描いていたにちがいない。身近にある物のかたちを写し取ることができた喜びを、親子で味わった瞬間があると思うが、絵というものを初めて認識したときの、そん...

どこかにいい国があるかな

ヒグラシの声を久しく聞いていない。    また蜩(ヒグラシ)のなく頃となった    かな かな    かな かな    どこかに    いい国があるんだ                 (山村暮鳥『ある時』)ぼくの住んでいるあたりでも、かつては車で1時間ほども走ると、里山ではヒグラシが盛んに鳴いていた。谷あいを細い川が流れ、瀬音に混じってカジカの鳴き声も聞くことができた。清流の石ころに巣食っている...

むらさきいろさくかも

ことしもアサガオが咲いた。種から種を引き継いできたから、咲く花の形も色もいつもと同じだ。今年もまた、いつもの夏の顔に会うことができた、といった懐かしさがある。もう何年つづいているだろうか。もともとは、孫のいよちゃんから種をもらったものなので、たしかブログに記録が残っていると思って、ブログの中のアサガオを検索してみた。早いものだ、十年一日の如し、10年前の記録が残っていた。アサガオの花は、きょう一日を...

木にやどる神

クリスチャンではないので、ふだん教会にはあまり縁がないが、旧軽井沢の聖パウロカトリック教会には魅せられた。建物にみせられたのだ。思わず教会の中に入ってしまったが、居心地が良くて、しばらくは出ることができなかった。周りの木々に調和した木造の建物は、柱や椅子、十字架にいたるまで、木が素材のままで生かされており、信仰を超えて、木の温もりの中に神が宿っていそうだった。それは柔らかくて優しい神だった。「初め...

赤いノスタルジー

ヤマモモの実がたわわになっている。赤く熟れた実をみると取って食べたくなる。飢えていた子どもの頃からの習性だろうか。というよりも、ぼくらの子ども時代は木の実をとって食べるのが本能みたいなものであり、遊びでもあったのだ。木の実はたいがい酸っぱさと渋み、それにわずかな甘みがある。子どもの頃に甘みに敏感だった舌は、成長するにつれて酸味や苦みへの反応が増していくみたいで、子どもの頃の味の記憶は忘れかけている...

詩人の手

室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』を読む。その中で、立原道造のことを次のように書いている。「彼は頬をなでる夏のそよかぜを、或る時にはハナビラのやうに撫でるそれを、睡りながら頬のうへに捉へて、その一すぢづつの区別を見きはめることを怠らなかった」。建築士でもあった道造は、色鉛筆をさまざまに使い分けて葉書を書いたらしい。ドイツ製の色鉛筆の蒐集は、道造のもうひとつの手が愛したものだった。「此の不思議な色鉛...