遊泳する言葉

言葉が追いつけないものがある。言葉に追いつけないものがある。だから言葉を追いかける……

走っているのは誰でしょう  

師走という言葉は、年の瀬にいちばんぴったりの言葉かもしれない。走っているのは先生や坊さんばかりではない。みんな走っているようにみえる。忙しい忙しいと言いながら、走る人ばかりが行き交っている。商店街は売り声と呼び込みでとくに慌しい。最近では元日早々から開いてる店も多いわけだから、そんなに買い急ぐ必要もないのに急かされてしまう。早く買わないと品物がなくなってしまいそうな雰囲気だ。ごったがえす喧騒の中か...
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カモかもしれない 

今年も、近くの池に水鳥が来ている。鴨かもしれないし、そうではないかもしれない。調べればわかると思う。野鳥図鑑なり、野鳥のサイトを検索すれば、簡単にわかることなのかもしれない。それなのに調べない。面倒くさいこともあるが、わからないままで、鴨かもしれないとか、鴨ではないかもしれないとか、曖昧な鳥が曖昧なままで水面を泳いでいるのが、それはそれでいいと納得してしまう。ぼくと鳥とは、そういう関係だ。名前のわ...
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光の言葉をもとめて  

街にクリスマスソングが流れ、LED電球が枯木の街路樹を多彩な光で満たしていく。生まれ変わったように夜の風景が輝きはじめる。この時期になると、クリスチャンではないぼくでも、なんだか神の懐に抱かれているように心が浮きたってくる。言葉は神なりきという、神の言葉が聞こえてくるような気分になる。「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神とともにあり、言(ことば)は神なりき。」これは新約聖書のヨハネ伝...
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晩秋の嵯峨野を行けば……ニシン蕎麦  

なぜか京都の食事は、ニシン蕎麦 秋の嵯峨野歩きは、早い夕暮れと、山から下りてくる冷気に追いかけられるようだ。体が温まる美味しいものでも食べて、旅の一日を締めくくりたくなる。とはいえ季節の京料理や懐石を、奥座敷で落ちついて食べられる身分でもない。いつも京都に来ると、気軽に食べられるニシン蕎麦に落ちついてしまう。いつからか、それが京都の味になってしまった。京都の蕎麦が、特別にうまいわけでもない。細くて...
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晩秋の嵯峨野を行けば……落柿舎 

柿ぬしは不在なり、落柿舎の秋田んぼの畦に、コスモスが咲いていた。やさしげな花色の向こうの、林の中に茅葺き屋根の小さな庵が見える。元禄の俳人・向井去来(1651~1704)が住まいした落柿舎である。去来は、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と芭蕉に称えられ、師翁にもっとも信頼された高弟だった。小さな門をくぐって入ると、正面の土壁に笠と蓑が架けられている。この家の主が在宅であることを、訪ねてきた客人に知...
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晩秋の嵯峨野を行けば……化野念仏寺 

あだし野の露消ゆる時なく京都は、四方を山にかこまれた盆地だ。夏は暑く、冬は寒い。そんな住みにくい土地に、昔から国の中心の都があり、大勢の人々が集まった。戦さがあり、疫病がはやり、飢饉や天災があり、多くの人々が死んだ。死体は東と西の山の麓にうち捨てられ、吹き寄せられた枯葉のように、盆地の隅で朽ち果てていったという。「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟たち去らでのみ住み果つる習ひならば、如何にものの...
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晩秋の嵯峨野を行けば……滝口寺 

滝口入道と横笛の恋祇王寺のすぐそばに、滝口寺はある。寺とはいえ、小倉山の山かげに隠れるような小さな山荘だ。開け放たれた二間つづきの座敷にあるのは、2体の小さな木像だけ。滝口入道こと斉藤時頼と横笛の像である。現世において、ふたりがこのように肩を並べることはなかった。恋するゆえに、時頼は横笛を避けつづけなけなければならなかったのだ。斎藤時頼は、平重盛に仕える武士で、清涼殿の滝口(東北の詰所)の警護に当...
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