遊泳する言葉

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森へ  <詩>

近くに小さな森がある魔女も赤ずきんちゃんもいない妖精も小人もいないむろん南方熊楠もいない                * 南方熊楠(みなかたくまぐす)サワグルミの木があるトチの木がある両手をまっ黄色にしながら固くて苦いトチの実とたたかった縄文人がいた餓死するまえに森へ逃げ込む赤い実をたべて赤くなる青い実をたべて青くなる苦い実をたべて生まれかわる5月も残酷な月だ苦い実はひと粒もない赤い実も青い実もな...

Into the Woods

朝はたいがい、ぼくは近くの森へ入ってゆきます。そこを森などというと、そこを知っているひとは笑うかもしれません。あれは昔の雑木山のただの残骸じゃないか、公園の一角に見捨てられた鬱陶しい雑木林じゃないか、そこらの鎮守の森よりも貧相じゃないか。まあ、なんとでも言わせておきましょう。魔女も赤ずきんちゃんもいません。妖精も小人もいません。もちろん南方熊楠もいません。でも、ぼくにとっては原始の森なのです。その...

そよ風のうた

若葉がいっせいにふきだす。またたくまに緑の色が深くなる。風もやわらかに薫り、爽やかな彩りに満たされる5月。やさしいそよ風の季節です。この時期になると、自然に浮かんでくる歌があります。    掌にうけし微風ほどの生甲斐に 人は生きゆく吾もかく亦有名な歌ではありません。22歳で死んだ無名の歌人の短歌です。彼の名前は本田敏夫といい、九州の同郷人ですが、ぼくよりもすこし年長だったので、郷里での接触はありま...

道  <詩>

夢の中でしばしば踏み迷ってしまういつもの道がある川原のようであり崖のようであり谷間のようでもある歩いても歩いてもどこへも辿りつけない道夢の中で私は置き去りにされる夢の外にもいつもの道がある団地を抜けてアーケードを抜けて駐輪場を抜けて駅に向かう貯水池と公園を一周して家に帰るこの道はいつもどこかに辿りつく夢の中で夢の外でふたつの道は交わらないふたりの私は出会わないときどき呼びかけたくなる夢の中へ夢の外...

あんたがたどこさ

ぼくが子どもの頃は、子どもたちはみんな、家の前の道路で遊んだものです。ゴム跳びや瓦蹴りは、男の子も女の子もいっしょになって遊びましたが、野球はもっぱら男の子の遊び、鞠つきは女の子の遊びと決まっていました。ぼくも鞠つきには何回か挑戦しましたが、どうやっても女の子にはかないません。女の子が手毬唄を歌いながら鞠をついているときは、側でぼんやり眺めていることになります。    あんたがたどこさ 肥後さ  ...

ふらんすへ行きたしと思へども

いまは5月、爽やかな季節ですね。とくに5月の朝は特別な朝、目覚めもいいような気がします。5月の朝の東雲(しののめ)、と口ずさみながらベランダに立って、明るくなってゆく東の空をしばし眺めていたりします。    ふらんすへ行きたしと思へども     ふらんすはあまりに遠し     せめては新しき背広をきて     きままなる旅にいでてみん。     汽車が山道をゆくとき     みづいろの窓によりかかりて ...

夢の公園

母親は息子に、ときどき話をしていたのでしょう。象や縞馬や、ほかにも、いろいろな動物たちがいる公園のことを。人間が作った動物たちは、動かずにじっとしているということを。母親が子どもだった頃も、そして今でもきっと、そのままの公園が街のどこかにあるということを。ある日、少年は突然、夢の公園に行きたいと言いだしました。え、どこに、そんな公園あるの? と母親。ほら、いつも話している動物のいる公園やんか。そこ...