遊泳する言葉

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落葉しおり

おりおりに、黒井千次の短編集を読んでいます。何気ない日常生活の中に、ふっと現われる妖しい夢や危険な陥穽。不思議な土人形の家や、凝視し続ける眼科医院の巨大な眼の残像。シャッタースピード1秒の写真に残るものと残らないもの。ある物の影が、突然、その物の存在そのものになってゆく。夢と現(うつつ)、影と物、それらがひとつになる時、普段ぼくらが見過ごしているものの、もうひとつの形が見えてくることがあります。 ...

きょうの料理

ここに信楽焼の長方形の皿があります。きのう、この上に秋刀魚がのっていました。きょうは1枚の落ち葉がのっています。箸をつけることはできないけれど、落ち葉は秋刀魚よりも美しいです。美しいが食べることはできない。そんなものが皿の上にのっていてはいけないような気もします。秋刀魚は美味しいです。さんま、さんま、さんま苦いか塩っぱいか――なのです。ひとり侘しく秋刀魚を食べていた男は、詩人の佐藤春夫です。佐藤春夫...

彼岸て、どこにあるんやろ

ここ数日、ぼくは彼岸について考えていました。「彼岸はどこにあるか」というタイトルで考えていたのです。けれども、このタイトルは、いかにも宗教的、哲学的な命題に思えて、どうしても肩に力が入ってしまい、浅学なぼくの思考は、彼岸はおろか此岸もみえてこないのでした。ネットで検索してみると、彼岸というのは仏教用語であり、迷いの世界であるこの世、すなわち此岸に対して、悟りの世界であるあの世、それが彼岸だと出てい...

ホームレスは歩くのれす

放浪の俳人・種田山頭火の昭和8年(1933年)10月15日の日記に、次のような記述があります。「私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであった。今日は酒が好きな程度に於て水も好きである。明日は水が酒よりも好きになるかも知れない。」この夏、ぼくはもっぱら水ばかり飲んでいました。“へうへうとして水を味ふ”、そんなものではない。冷蔵庫できりきりに冷した水をごくごくと飲む。しばらくする...

秋の夕焼け鎌をとげ

きょうは夕焼けがきれいだった。よく乾燥した秋の、薄い紙のような雲に誰かが火を点けたように、空はしずかに燃えていた。急に空が広くなり、遠くの声が聞こえてきそうだった。お~い、鎌をとげよ~、と叫ぶおじいさんの声が聞こえてきそうだった。夕焼けの翌日はかならず天気なので、農家では稲刈りをすることになるのだった。祖父は百姓だった。重たい木の引き戸を開けて薄暗い家の中に入ると、そのまま土間が台所と風呂場に繋が...

ネットの中の「私」

ネット上の某詩投稿サイトで、ぼくはyo-yoというハンドルネームで詩の投稿をしています。そこでは、投稿された詩に誰でも自由にコメントできるのですが、いろいろなコメントの内容をみていると、1編の詩がどのように読まれているかがよく解ります。多くの場合、そこでの詩は、投稿者の個人的な心情告白として読まれているようです。また、そのような詩が多いことも確かです。投稿者の人格なり生活の背景なりを推測しながら詩を読...