遊泳する言葉

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私の影はどこに

机の上を片付けていたら、新聞の古い切り抜きが出てきた。歌人の大辻隆弘氏の短歌月評の記事で、『「私の影」に出会う』というタイトルが付いている。あらためて読み返してみる。「短歌は自己表現の道具ではない。歌の調べに身を任せ、外界の変化のなかに影のように「私」を添わせてゆく。そのとき、そこに自分でも気づかなかった「私の影」が現出する……。短歌は、そんな新たな出会いを保証する詩形なのだ。」。ぼくは短歌のことは...

小さな旅

そヾろ神の物につきて心をくるはせ……なんと、わけもなく人の心をそそのかす神がいるという。そんな神にとり憑かれたように、白河の関を越えたいと旅を思い立ったのは俳人の松尾芭蕉だった。年の瀬のいま、ぼくもまた、ひとつ関を越えなければならない気がしている。おまえも越えよという、そヾろ神の声に急かされている。どこやらで旅する人たちがいることを想う。旅のように思わぬところで、自分で書いた古い詩に出会い、言葉の旅...

炉端のはなし

細い川が流れている。地の底からお湯が噴き出しているので、川の水もいくらかは温かいかもしれない。だが濡れっぽい道は底冷えがする。狭い谷あいの川に沿って、古くからの温泉宿と新しそうな土産物店が混在している。静かでいて賑やかだ。谷の深みへと沈殿するように、人と水が集まってくるからだろうか。古い民家風の休憩所がある。囲炉裏があり、薪が燃やされている。壁も天井の梁も煤で真っ黒になっている。火のそばにすわって...

山のむこう

山のあなたの空遠く幸(さいはひ)住むと人のいふ……そのようなカール・ブッセの詩を信じて、高い山の向こうには何かいいことがありそうだと、若いころは思ったものだ。実際に、いくつかの高い山にも登った。いいことは山の向こうにあったのではなく、ただ山に登ったということが、いいことの記憶としていまも残っている。九州に帰ると、いやでも山にとり囲まれる。山のかたちは変わらない。そのことは、古い記憶が変わらない形で残...