遊泳する言葉

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道づれは水と光と小法師と

東北の旅は、とっくに終わっている。だが、このブログでの旅はやっと終わろうとしている。だいぶ旅の余韻を引っぱってしまった。その間に梅雨も上がり、はや猛暑の夏がはじまって、いまは蝉しぐれの雨に襲われている。旅は楽しいものでもあるが心細いものでもあった。だがら旅は道連れと、小さな道連れを二人つれ帰ってきた。顔も体も不細工だが、なかなか根性がある。転んでも倒れてもしゃんと起き上がる。会津の起きあがり小法師...

その空は水と光にみちているか

見上げると、はるか崖の上に堂宇が見える。「山形領に立石寺(りっしゃくじ)と云ふ山寺あり」と。その山形には、これまで馴染みがなかった。はじめての山形の、雨上がりの湿った空気を深く吸い込みながら、千段の石段をのぼる。木々も岩も垂直に立っている。雨の里を離れて、登るほどに空が青く澄みわたっていく。いつのまにか梅雨の雲を突き抜けたのだろうか。ひたすら石段をのぼる苦役は、楽しい旅の感覚をとっくに離れている。...

いま東北の海は穏やかだけど

やっと東北の海にたどり着く。ああ、これが松島かとぼんやり眺める。曇天のせいか、さほど美しい景色とも思えない。期待のほうが大きすぎたのかもしれない。島々も海もピントが合っていない感じだ。そんなはずはない、という声がどこからか聞こえてくるような気がする。たぶん芭蕉さんの声にちがいない。その声にすこしずつ彩色されるように、ひとつひとつの島が浮かび上がってくる。「松嶋(まつしま)は扶桑(ふそう)第一の好風(こ...

変幻しつづける水のゆくえ

水の旅はつづく。雨は天から落ちてくる。地上で水となって流れたり留まったりして、川となり湖となり、沼となる。会津の磐梯山のふもとに五つの沼がある。五つの沼には五つの色があるという。なかでも一番大きな沼である毘沙門沼の遊歩道を、早朝にホテルを抜け出して歩いてみた。歩いても歩いても沼はつづいている。沼の外れまでたどり着くのがやっとで、ほかの沼まで巡る余力は残らなかった。だからぼくは、たったひとつの沼の色...

砕けてひかる水のたましい

川が好きだ。どこの川も、遠くから見ると同じ姿をしている。ぼくの中の記憶の川とかさなる。だから懐かしい。ぼくにとって川はふるさとだ。だが、ブナや白樺の林をぬって流れる北国の川は、すこし他人の顔をしている。それでも、川に変わりはない。人見知りするほどの小さな距離はあるが、それだけにいっそう近づきたい欲求にかられる。そんな川のひとつが奥入瀬渓流だった。長いあいだ憧れていた川に、いまやっとたどり着いた。冷...

幾千年でも黙って立ってろ

青森は初めてだ。とうとう本州の北のてっぺんまで来たか、と感慨も深い。十和田湖を見るのも初めてだ。梅雨空が低くたれて、まわりの山を隠している。そのせいか、灰色の湖面がやわらかく盛り上がってみえる。いままでは十和田湖という名称だけを知っていた。今日からは、この風景がぼくの十和田湖になる。湖畔に建つ、有名な「乙女の像」をみる。彫刻家であった高村光太郎の、生涯最大にして最後の作品だと言われている。制作に当...

五月雨の降りのこしてや光堂

奥州平泉でついに雨に追いつかれてしまった。傘をさして暗い林を抜ける。その先に、光り輝くものはあった。それは鉄筋コンクリート造りの覆堂(おおいどう)の中、大きなガラスケースに収められてあった。仏像も柱もすべてが金色に輝いていた。890年もの間、金と螺鈿の輝きを失わなかったことに驚く。これこそ人が作りだした、千年の光だった。墨のいのちも長い。棟木に「天治元年」(1124年)、「大檀散位藤原清衡」などの墨書...

光をもとめてサンダーバード

パソコンが絶不調に陥った。いままでも、さまざまなトラブルはあった。だがそれは、風邪であったり消化不良であったり、その程度のことだったので、ぼくの力でもなんとか克服できてきた。けれども今回は重症だった。まるで迷路にまよい込んだように、試しても悩んでも行き止まりばかりの袋小路。ついにはパソコンの方でも疲れきってしまったかのように、とろとろとした反応しかできなくなってしまった。もう打つ手がない。というか...